1-13 粟ヶ崎遊園跡地

 大正14年夏、鳥取砂丘に次ぐ規模の石川県内灘(うちなだ)砂丘に夢の大遊園が完成しました。その名は「粟ヶ崎遊園(あわがさきゆうえん)」。単なる遊園地ではない、1000人収容可能の大劇場、大広間、大浴場、レストラン、動物園、野球場までもがそろった総合リゾート施設でした。
 創設者は関東大震災の復興で大もうけした材木商。国鉄の金沢駅から粟ヶ崎、内灘までを結ぶ浅野川電気鉄道(現在の北陸鉄道浅野川線)の社長となり、鉄道の敷設と遊園の建設を同時進行させました。劇場には一流の役者が出演し、少女歌劇団も結成され、粟ヶ崎遊園は「北陸の宝塚」とまで呼ばれました。
 しかし、この夢の大遊園は長続きしませんでした。創設者が昭和7年に亡くなり、遊園は一旦競売に出されました。その後遊園は再開されたものの、昭和16年、ついに閉鎖され、建物は戦争中の兵舎、軍需工場に転用されてしまいました。
 戦争が終わり、本場の宝塚など、他のリゾート施設は次々と復興されていきましたが、粟ヶ崎遊園は復興されることがないまま、消えてゆきました。当時の建物は、ほとんど残っていないそうですが、2000年5月13日、石川県の地方新聞に貴重な記事が掲載されました。粟ヶ崎遊園の遺構の写真も掲載され、廃墟ファンを喜ばせてくれました。新聞からわかる粟ヶ崎遊園の姿をお楽しみください。

石川県で多く読まれている地方新聞「北國新聞」から。
遊園の模型から、遺構の写真まで掲載されていました。

特にわずかに残った遊園の遺構は貴重です。新聞に掲載された写真を拡大して表示してみました。

辛うじて残された粟ヶ崎遊園の玄関先だそうです。石造りの頑丈そうな門ですね。

他にも遺構は見つかるか?まだ未定ながら、粟ヶ崎方面の取材を考えています。いい写真ができたら、公開します。


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